リトルロック危機の主人公たち

こんにちは!
アーカンソー州議事堂にあった少年少女の銅像は、1954年にこの地で起こった「リトルロック危機」と呼ばれる事件の主人公たちでした。
リトルロック郊外にセントラル高校という学校があります。
1927年に建てられたというこの校舎は、とても美しく、歴史を感じさせるどっしりとした造りです。

当時、アメリカで最も美しいとも評されたこの高校を舞台に大事件が勃発したのは1957年です。
20世紀半ば、ちょうど公民権運動が活発だった時代です。
全米に広がる差別撤廃という大きな流れの中で、それに猛反発する勢力もまた存在しました。
南部は特に、歴史的背景からしても根強く人種差別が残っている地域でした。
当時は、教育の場においても人種差別がありました。
明確に白人のための学校、黒人のための学校というものが存在し、異なる人種が同じ学校に通うことはなかったそうです。
ですが、そんな歴史を覆すある判決をアメリカの最高裁判所が下すことになります。
「人種により受けられる教育が異なるというのは違憲だ」、というものです。
この判決を受けて黒人の地位向上を目指していた団体(NAACP)が声を上げ始めました。
当時、このセントラル高校は白人のための学校でした。
NAACPはこのセントラル高校に、黒人用の学校に通う成績優秀者9名を転入させることにしたのです。
確かに、教育での人種差別は違法だと正式に認められはしましたが、市民の認識とは大きくかけ離れていました。
転入を知った親たちは自分の子供が黒人と机を並べるなんて考えられない!と
転入反対のデモや集会が行われ、それはそれは大騒ぎだったそうです。
そんな中、ついに転入の日がやってきました。
その朝、黒人の生徒たちは、みんなで固まって学校に向かいました。
すると、セントラル高校の前には州兵がズラリと整列しています。
この州兵は、「群衆の暴動を抑え、黒人生徒を守るため」るためではなく、「黒人生徒の入学を阻止するため」州知事が出動させたものでした。
(ちなみに、当時のアーカンソー州知事は、「教育の場での人種統合を拒否する権利だってある!」と声を上げ、多くの保守派の白人たちから支持を得ていたのだとか…)
転入初日、州兵に阻まれ登校できず、黒人生徒たちは泣く泣く帰宅するしかなかったそうです。
州兵が出動しなくなった後も、転入反対を唱える群衆たちに阻止され、生徒たちはなかなか登校することができませんでした。
彼らを取り囲む群衆は1,000人を超えていたのだとか。
9人対1,000人…、想像できません。
きっと生徒たちは、毎日命の危険を感じながら登校したのでしょうね。
なんとか登校できるようになった後も、いじめやいやがらせは続いたそうです。
その後も、セントラル高校を舞台にさまざまな出来事が起こりました。
ここに書き記し数行でまとめられるほど、簡単な問題ではありません。
そんな話を聞いていたら、なんだか急に泣きたくなりました。
泣いたってしょうがないのですけど…
今、目の前にあるこの美しい校舎からは、全く想像ができない酷い事件は、遥か遠い昔のことではないんですよね。

「でも、その9名のおかげで今があるんです。」
八木さんは言いました。
「現在は、白人生徒と黒人生徒の比は、5:5と言われています。
それに、国際教育にも力を入れていて、大変人気のある学校で、
今では学校区外からも通えるマグネットスクールでもあるんですよ。」
彼らのモニュメントが州議事堂に置かれる意味や、
遠い昔ではない時代にそんな事件が実際にあったということ、
だけど、目の前にある校舎はただただ美しいということ。
いろんな思いで心の中が埋め尽くされました。
「リトルロックは静かないい街ですが、そんな歴史もあったんですよね。」
八木さんのその言葉を噛みしめながら、セントラル高校を後にしました。

次回 ⇒ 29.アーカンソー州といえば に続く
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