メンフィス かつての音楽産業の中心地

1950年代のメンフィスには、南のミシシッピ州やアーカンソー州など周辺のエリアから多くのミュージシャンが集まってきた。同時に一攫千金を目論んで、多くのタレント・スカウトマンたちもこの街にやってきて、金儲けにつながる才能を探し歩いていた。1947年にスタートして今でもメンフィスにあるラジオ局WDIAは、駆け出し時のB.B.キングやルーファス・トーマス、ソニー・ボーイ・ウィリアムスンなどのミュージシャンたちがDJを務め、この街の音楽の盛り上がりに拍車をかけた。1950年代のメンフィスはまさに音楽産業の中心地であり、この時代のメンフィス音楽シーンの中心にいたのがサム・フィリップスのサン・レコードだったのだ。
サン・レコードとサム・フィリップス

アラバマ州フローレンス出身のサム・フィリップスはラジオ局で働く傍ら、メンフィス・レコーディング・サービスという会社を経営していた。キャッチ・フレーズは「どんな音楽でも録音可能、片面3ドル、両面4ドル」。ビール・ストリートの街角で歌っていた無名時代のB.B.キング、ハウリン・ウルフなど、多くのブルースマンたちがここで録音してレコード会社にデモテープを送っていた。このスタジオで録音したジャッキー・ブレストンの『ロケット88』が全米R&Bチャートの1位を獲得すると、サムは単に録音するだけでなく、自分のレコード会社を立ち上げることを決心する。そして1952年、伝説のサン・レコードが誕生したのである。

1953年7月、高校卒業後トラックの運転手をしていたエルヴィス・プレスリーが自分のデモテープを録音するためサン・レコードにやってきた。サムが不在だったため、この時はアシスタントのマリオンがウエスタンとバラードの2曲を録音して、エルヴィスは4ドルを支払っている。数日後サムはこのテープを聴いた。決して出来の良いボーカルではなかったが、なにかがサムの心に響いた。およそ1年後の1954年7月、録音中のバンドのボーカルが行方不明になったため、代役を探していたサムはエルヴィスを思い出し、早速スタジオに呼んだのだ。ブルースを歌うことを勧められたエルヴィスは、フェイバリット・ソングである『ザッツ・オール・ライト』を録音する。エルヴィスとサン・レコードのサクセス・ストリーはここから始まったのである。

『ザッツ・オール・ライト』はローカル・ヒットとなり、エルヴィスは立て続けに5枚のシングルを発表した。そして1955年11月、エルヴィスを世に送り出したわずか1年後にサムはエルヴィスとの契約を大手RCAレコードに35,000ドルで売却する。当時としては大金である。まとまった金額を手にしたサムは、2年前にメンフィスに最初のモーテルをオープンさせたばかりのホリディ・インに投資する。その後ホリディ・インは全米にチェーン展開を成功させ、サムのビジネスは大きく飛躍していった。一方RCAからミリオン・ヒットを連発させたエルヴィスは国際的スーパースターとなり、1960年代には輝かしい黄金時代を築きあげる。

サン・スタジオ(Sun Studio) 706 Union Ave., Downtown Memphis TN
http://www.sunstudio.com
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著者紹介
桑田英彦 Hidehiko Kuwata
音楽雑誌の編集者を経て渡米。1980 年代をアメリカで過ごす。帰国後は雑誌、機内誌や会員誌などの海外取材を中心にライター・カメラマンとして活動。世界30カ国を旅して、観光地だけでなく、ライフスタイル、グルメなどを取材。またアメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリー、ウクライナなど、海外のワイナリーを数多く取材。著書は『ワインで旅する カリフォルニア』『英国ロックを歩く』(スペースシャワーネットワーク)、『ミシシッピ・ブルース・トレイル』(スペースシャワーネットワーク)、『ハワイアン・ミュージックの歩き方』(ダイヤモンド社)、『アメリカン・ミュージック・トレイル』(シンコーミュージック)等。